百四十六話 秋刀魚の味

ようやく秋刀魚の季節になった。
と言う事でどっかで秋刀魚を喰うことにする。
秋刀魚というと炭火で塩焼きにしてすだち醤油で喰うというのが最上だと思うのだが。
それだと家で喰っても変りない。
せっかく東京で喰うんだからちょっと小洒落た嗜好で味わいたい。
伊料理にした。
恵比寿駅を東口で降りて明治通りに向かって歩く。
駅前の飲屋街が川にあたる手前できれた辺りの露地に目当ての伊料理店はある。
“ Il Boccalone ”
一九八九年に開店したらしいのでもう二十年以上経っていて老舗の域だろう。
この地には日本麦酒醸造株式会社のえびす麦酒出荷駅として停車所があった。
明治三十四年以来その麦酒に由来してこの地を恵比寿とした。
一九八九年と言えば “えびす” 麦酒工場が閉鎖となった翌年にあたる。
想えば再開発によって “ Yebisu Garden Place ” と名を変え何もかもが洒落て高級となったこの街も、
かつては商店街に連なる薄暗い露地に安い定食屋や飲屋が点在する下町だった。
“ Il Boccalone ” はそんな恵比寿の “ 日の名残り ” を感じさせる飯屋である。
薄闇に浮かぶ鰻の寝床みたいな店は入口付近に客は無く奥に進むにつれて賑わっていく。
入口が賑やかで奥は静かという日本の食堂と伊のそれは有り様が異なる。
内装や品書きや給仕のやり方までの細かな商習慣を現地に倣っている。
細かくは伊中部トスカーナ州の流儀にと言うべきかも知れない。
Suppli・Capunata・Frittata 等が盛られた Antipasto Misto
肝心の秋刀魚については、
Piei Toscani と呼ばれる素朴な生パスタにトマトとポルチーニ茸を合わせオリーブオイルで仕立てる。
栗と鳩肉の Risotto alla Parmigiana もこの季節ならではの嬉しい一皿である。
秋刀魚と栗で秋の味覚堪能という囁かな目的は達せられたので主菜は何でも良かったのだが。
やはりトスカーナの郷土料理となれば肉だろう。
豚肉の良いのがあると勧められたので炭火焼にして貰う。
〆に皿てんこ盛りの Tiramisu を喰って箸を置く。
味もしっかり量もしっかりで完全な馬鹿喰いの夕餉となってしまった。
“ Il Boccalone ” の料理をトスカーナ人に目を瞑って喰わせて⎡此処は何処?⎦と尋ねれば。
多分十人中十人ともトスカーナ州の何処かの村名を告げるだろう。
それほどに “ Il Boccalone ” は “ Toscana ” だ。
ただ秋刀魚を食材としたトスカーナ料理は無いと思うけど。
そう言えば “ 秋刀魚の味 ” と題された映画があったよなぁ。
邦画界を代表する巨匠中の巨匠 小津安次郎監督の遺作となった作品 “ 秋刀魚の味 ”
しかし、この作品に秋刀魚は登場しない。
小津先生は人生の辛さを秋刀魚のはらわたの苦みに喩えられた。
人生は辛くないに越したことはないが、秋刀魚はやはりほろ苦さが引立った方が旨い。
伊料理ではワタをあらかた処理してしまうので苦みが弱くなる。
やっぱり秋刀魚は塩焼きにすだち醤油じゃなきゃ駄目だな。
これ以上の秋刀魚の喰い方は無い。
となるとやっぱり長年餌を与えてもらっているあのシェフ頼みかぁ?
とっとと巣に帰ろ。
機嫌が良ければ土瓶蒸しも添えてくれるかも。

カテゴリー:   パーマリンク