百五十七話 画家の女房

たまたま行った先の丹波篠山で辛い話を知る事となった。
篠山城の掘割傍で食通の間でも名高い鮨屋を営まれているご夫婦がおられる。
七十三歳になる鮨屋の主人は、篠山出身の画家と同級生である。
女将から画家が亡くなられたと聞いた。
昨年十二月ちょうど今頃との事だった。
取ってはならない不覚を取った。
欠いてはならない義理を欠いた。
恩人の死を 一年もの間知らずにいたという話になる。
あんなに世話になったのに。
あんなに可愛がって貰ったのに。
浅はかな考えから十五年以上も逢わずに時を過ごしてしまった。
画家の名前は 吉田カツ。
名前は知らずともその仕事は日本人のほとんどが今でも目にしている。
フジサンケイグループの目玉マーク、麒麟麦酒、マルサの女、ANA機内誌 “ 翼の王国 ” などと、
この国の日常に溢れている。
僕は、 カツさんと仕事を共にした事を誇りに思い支えにもしてきた。
それだけに、今更どの面下げて電話できるんだと思った。
嫁がやってきて言う。
⎡電話しなさい、今すぐに⎦
電話番号も住所も嫁が大切に手元に置いていてくれた。
⎡吉田でございます⎦
懐かしい毅然とした明瞭な声が耳に届く。
⎡カツさんのお宅ですか?⎦
名前を告げる前に電話向こうの声が一変する。
⎡䕃山ぁ?䕃山なのぉ?⎦
⎡ご無沙汰…………………。⎦
情けないことに、言うべきことが山ほどあるのに後が続かない。
人と人との相性とは不思議なものである。
時がどれほど経っても、途中何があっても、立場が違っても、声だけでわかる人もいる。
互いに少し落着いたところで、その後の話となった。
商業的な仕事から身を引いて最期は画家としてありたい。
そう願って、長年活動の場としてきた東京から故郷へとアトリエを移した。
京都現代美術館 “ 何必館 ” の支持もあって画家としてのこれからが期待されていた矢先だったという。
僕は、吉田カツという人はその画業において決して不遇だったとは思えない。
むしろ最高に恵まれた作家だったんじゃないかなぁ。
それでも無念さは残る。
奥様の智恵子さんもどんなにか無念だったろうと思う。
名を残す芸術家の多くは気難しい。
カツさんもそうじゃなかったとは言い難い。
僕はそういうところも含めて好きだったけど、難しさではかなりのものだった。
気難しく繊細な画家を女房として支え、全てをやりくりして画業を全うさせ後世に作品を残させる。
並大抵ではない覚悟と能力と愛情と理解がなければ成しえない。
だから、吉田カツは吉田智恵子と共に描いた作品を世に出したということになる。
芸術家 岡本太郎にとっての岡本敏子、写真家 荒木経惟にとっての荒木陽子がそうであったように。
芸術家の偉業は、その妻の偉業というに等しい。
吉田智恵子さんは、颯爽として格好良い女性だ。
そして、画家の女房としての全てを備えられている。
吉田カツは、男としても画家としても幸せだった。
カツさん、そうでなかったとは言わせませんよ。
それにしも、大切な人に逢う機会を先延ばしにしてはいけない。
自身そういう年齢に至ったと自覚すべきだった。
もう不義理が許される歳ではないのである。
ほんとうに、ほんとうに、悔やまれる。
こんな想いをするのは二度と御免だ。
なので山里の冬は寒いなどとは言っておれない。
すぐにも逢いに行かなければ、大好きだった画家の大好きな女房に。

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