三百五十一話 あの日の神戸

二〇年前。
一九九五年一月一七日午前五時四六分五二秒
兵庫県南部地震は発生した。
震源は、この海辺の家から目と鼻の先の沖合だった。
家屋は半壊だったが、義理の両親は無事でいてくれた。
半壊指定を受けたことで、
義援金だか補助金だったか名目は忘れたが、いくばくかの金銭が支給されるという。
当時の世帯主だった義父は、その受取を拒んだ。
なにも金銭を受取らなかったことが偉いというわけではない。
そんなひとは多くいたんだろうと思う。
「役目を終えた人間が残って、そのうえ施しを受けるわけにはいかない」
そう伝えろと義母に言ったらしい。
その日の夕刻、退官して灘区に暮らす大学時代の恩師と電話が通じた。
「先生、ご無事でしたか?」
「あぁ、家族も無事だし家も無事だよ、ただ面目無くて外にも出れんよ」
灘区も酷い有様だった。
素直に自らの無事を喜べない光景が、神戸という街のあちこちに広がっていた。
なんであのひとが逝って、俺が残ったのか?
いくらでも理屈をつけて、納得しようと思えば納得できなくもない。
断層がどうだったとか、火災の風向きがどうだったとか、そんな類の理屈である。
だけど、どんなにしたって説明のつかない理不尽さが残る。
そして、その理不尽さは、奇妙な罪悪感をともなって心に少しづつ積もっていく。
夜が明けて、食料と水を届けに西へと向った。
鉄道は西宮までで、そこから先はどこへ行くにも徒歩でゆくしかない。
あの日、日本中の誰もが目にしただろう映像の中を歩く。
阪神高速の横倒しになった橋脚の脇を通り過ぎてから。
いろんなものを見て、いろんな匂いを嗅いで、いろんな声を聞いて、いろんなことを感じたけれど。
それらを家族にも誰にも語って聞かせたことはない。
東京に暮らす知人達からも、安否や神戸の様子を尋ねられもしたが。
「まぁ、テレビで見たまんまだよ、俺たちよりそっちの方がよく知ってんじゃねぇの?」
「正直なとこ、なんもわかんねぇよ」
なんでこんな立派な方や、なんでこんな良い奴が、こんな目に遭わなきゃならないのか?
いくら考えたってわかりゃしないし、考えたくもない。
逃げだしたい気分で、実際逃げだしたようなもんなんだけど。
あの日以来、神戸は自分にとって少し遠い街になったような気がする。
二◯一五年一月一七日午前五時四六分五二秒
東遊園地では、今年も慰霊祭が催される。
毎年続けられてきたのだが、足を向けたことは一度もない。
この慰霊祭は、ほんとうに愛するひとを失った方々が集うにふさわしい場であって。
家族も失わず、家が傾いた程度でしかない人間が手を合わせるのは場違いだ。
そんな自虐的で、屈折した奇妙な罪悪感が今なお残っている。
馬鹿な感情で、間違った考えだと承知してはいても、どうしても拭いきれない。

震災は嫌なものだ、つくづく嫌なものだ、こんなにも嫌なものは世の中にそうはないほどに嫌だ。

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