三百二十三話 こんなもんで、誤摩化されないぞ! 後編

引っぱりに引っぱった挙句の後編です。
今回、新作は foot the coacher だけで、AUTHENTIC SHOE & Co. にはないと聞いていた。
そのないはずの新作が、実はあるのだという。
“ an éude shoes no.1 ”
僕が、この靴に執着する理由を解するひとは少ないと思う。
いや、多分いないだろう。
竹ヶ原敏之介君本人だって理解しないかもしれない。
無名の靴職人だった頃から今日まで、途切れることなく彼の靴とずっと付合ってきた。
そして、僕は、靴評論家ではない。
身銭を切って、生きる糧として真剣に向合ってきたつもりである。
だから、靴をどうだこうだと評して、それで終りというわけにはいかない。
その立場で、敢えてこの靴の是非を問おうと思う。
この靴の外観上には、古典的要素は見当たらない。
おそらく、この靴を製作するにあたって、視界には過去にあった古典靴の残像はなかったのだろう。
その意味に於いて、前作の Spencer Shoes も含め、今までの竹ヶ原敏之介の靴とは明らかに異なる。
では、竹ヶ原敏之介の靴らしくないか?と問われれば、これまた明らかに彼自身の仕事だと言える。
一切の装飾を排し、まるで黒く塗装された木型が剥き出しで置かれているような禁欲的な風情。
この last には、古典靴にはない奇妙な均衡がある。
それは、製靴史上名靴と称され、手本とされてきた均衡とは一線を画しているように思える。
前衛的とも、近未来的とも評していいのかもしれないが、とにかく独創であるに違いない。
これまでの竹ヶ原敏之介の流儀は、
古典靴を独自の視点から眺め解釈し解体して、再度構築するというものだったように思う。
だけど、
それは、ある意味古典靴の呪縛の範疇であって、再構築したところで逃れることは適わなかった。
その呪縛から解放された新たな均衡が、この靴には確かにある。
そして、Sole は、極端に低く構えられている。

この低さが、靴に中性的な優美さを漂わせているのだろう。
素材には、Box Calf の雄と称される独 Weinneimer 社の革が使われていて。
鞣し工程の短縮による革本来の硬さが程良く残っている。
繊細にして剛健、優美にして禁欲、前衛にして懐古。
交錯する矛盾を内包しながら、それでも絶妙に均衡させていく。
現在、皮革品製造を取巻く環境は世界的に厳しい、これからはもっと厳しくなるだろう。
その渦中にあって、行く道を照らす灯明のような靴なのかもしれない。
今回、ダンベルに始まって、水筒、雨合羽、海苔巻き、そして靴へと続いたが。
こうして、なんの脈絡もないアイテムを繋げていくと見えてくる景色がある。

竹ヶ原敏之介の屈折した感性が織りなす世界観は、十五年経った今も見飽きない。

 

 

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