二百八十九話 虫干し

五月末。
梅雨入り前に、やっておかなければならない。
古書の虫干し。
古くは曝涼とも言われ、年に一度土用の頃に行われていたらしい。
海辺の家にも、義理の父母が生前買求めた蔵書が数多く眠っている。
古書店に売ろうかとも考えたが、 手元に置けるものは置こうということになった。
ただ、册数もかなりの数で、その上、昔の本は装丁がしっかりしていて重い。
一度に全部を干すのは到底無理で、三日はかかるだろう。
美術本の修復等ではないので、なんの技術も必要としない単純作業が続く。
まず、日光に直接当てると黄ばみが進むので、日陰に並べて干す。
時折、頁をめくる。
半日ほど繰返した後、密閉出来る硝子棚に移す。
その際、巾着袋に重曹を入れたものを幾つか用意し仕込んで、一週間ほどそのままに置く。
匂いを、重曹へと移し、本の匂いを取るのだ。
本は、様々な匂いを吸着する。
だから、希少本や、美術本を前に煙草は厳禁である。
煙草の匂いは、重曹でも容易には取れず、価値は一気に下落する。
他人の蔵書を眺めるのは、面白い。
そのひとの嗜好や、職業柄や、性格等も垣間見えたりする。
大袈裟に言うと、人生を映している。
義理の父は、船乗りだったので、やはり海に関わる専門書が多い。
航海学、機関学、航海史、海事国際法、公海紛争記録、海洋気象演習とかいったものもある。
マニアック過ぎて内容はさっぱりだが、こんな本が、こんなに色々と出版されていることに驚く。
どの本も、擦切れるほど読み込まれていて。
ふ〜ん、ただの大酒飲みかと思ってたけど、結構インテリじゃねぇのぉ。
小説の類もあった。
司馬遼太郎先生の代表作、“ 坂の上の雲 ” が初版で揃えられている。
大日本帝国海軍の将官であった秋山真之を通して、近代国家へと向かう日本を捉えた長編である。
この作品もまた、日本海海戦など海での話に紙幅が割かれていたように思う。
海、ばっかり。
海軍士官だった頃の呉に始まり、門司、返還前の琉球、逗子、そして神戸。
丘に上がっても、ずっと潮の匂いを嗅いで暮らしてきた。
引退後、夫婦揃っての旅行も船旅だった。
こんだけ海が好きなら、来世は、ハマチにでも生まれ変わればいいのに。
ようやく、海以外の本を見つけた。
前漢時代の中国、司馬遷によって編纂された “ 史記 ”。
ほぉ〜、これまた高尚なもんですなぁ。
「天道是か非か」とかって、読んだことないけど。
外箱を開けてみる。
表紙を、透明の薄紙が覆っていて、そのままにしてある。
なんだぁ、読んでねぇし、開けてもねぇじゃん。

やっぱり、次はハマチだな。

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