二百七十五話 それは、懐古か? 反逆か?

危うく見逃すところだった絵を観に行く。
会期終了間近の “ ラファエル前派展 ”
観るべき作品は、ただひとつ。
John Everett Millais  “ OPHELIA ”
そして、観るべき視点は、ただ一点、描かれた背景にのみに集中する。
それが、この絵画を理解するうえで、正しいのか、誤りなのか、そんなことは知らない。
また、ここで、その解説を披露するつもりもない。
ただ、このヴィクトリア朝の傑作と称される名画を眺めていて、或映画を想った。
奇才 Woody Allen 監督作品 “ Midnight in Paris ”
確かこんな粗筋だったように記憶している。
一九二〇代の巴里を敬愛する現代の作家が、過去の巴里へとタイム・スリップする。
そこで、心酔してやまない当時の芸術家達と巡り会う。
Fitzgerald夫妻、Cocteau、Hemingway、Picasso といった文豪、画家、詩人達と夜毎興じる。
やがて、Picasso の愛人 Adriana と恋仲となるが、彼女は、ベル・エポックの巴里に憧れていた。
そして、再度、巴里が最も輝いていた時代ベル・エポックへと遡ってタイム・スリップする。
そのサロンには、Lautrec、Cezanne などが集っていて、彼等は言う。
一五世紀のルネッサンスこそが、芸術の黄金期だったと。
現代を生きる男は、一九二〇年代に産まれたかったと言い。
一九二〇年代を謳歌する女は、一九世紀末のベル・エポックに憧れ。
一九世紀の芸術家は、一五世紀のルネッサンスに想いを馳せる。
精神病理学上の懐古主義 という病を、Woody Allen は、見事に描いている。
ラファエル前派とは、こうした病を患った連中だったのではないか?
一九世紀美術の形式的な表現をつまらないものとし、美術史の遥か過去へと目を向ける。
真摯な視線の先にいたのは、巨匠 Raphael と、その追従者であるラファエル派の画家達だった。
創造を糧とする者達が、一度は患う懐古主義という病。
時には、比類無き名品を産む。
その事実を、“ OPHELIA ” は、物語っているのではないかと思う。
さて、ラファエル前派の顔ぶれには、William Morris がその名を連ねている。
Morris は、MORRIS 商会を設立し、Arts and Craft 運動を主導する。
産業革命の産物として、大量生産による安価な粗悪品が街中に溢れた。
そこで、中世の手仕事に回帰し、生活と芸術を統べるよう唱える。
この絵画展で、“ OPHELIA ” 以外に感嘆させられたものがあった。
七〇数点の名画を囲っている額装品の数々である。
これらが、Arts and Craft 運動の成果とは言切れないが、見事なヴィクトリア朝装飾が施されている。
真鍮製の飾り鋲、金彩色のマウント、装飾錠など、額装品だけでも見応えがある。
名画とは異なり、名も無き工芸職人の手によるのだろうけれど、それでも見事だ。
一九世紀の科学技術は、工業・金融・情報・文化・芸術など多くの分野に劇的な変化をもたらした。
一六〇年経った現代も、似たような状況にあるのではないか?
一〇数センチの小さな箱が、国家の行末さえをも支配する世で、人は何を感じ、何を求めるのか?
カウンター・カルチャーとしての懐古主義。
服飾の世界に於いても、こうした病が蔓延するような気がしてならない。
僕の周りにも、重篤な症状を呈している輩がいる。
それは、懐古か? 反逆か?

次回は、是非とも、そう問い質してみたい男の話です。 

 

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