二百七十二話 Bèsame mucho

08 Sircus の Hickory Stripe Suit を見ていて、あるひとの事を想う。
長年お世話になった紡績会社には、流暢にポルトガル語を操るひとが大勢いた。
日系企業の先駆けとして、戦前より中南米に深く関わってきた経緯がある。
そんな事情で、本店や支店だけでなく、各工場にも南米駐在経験者がいる。
何事につけ、細かい事にこだわらない、おおらかな人達で、神経質な人はあまりいない。
元々そういう人柄だから赴任することになるのか、赴任先の風土気質がそうさせるのか。
そこのところは、はっきりとはしない。
多分、元々に加えて、現地のラテン気質が 拍車をかけるのだろうと思っていた。
だが、なかには例外の方もおられる。
入社して六ヶ月は、各地の工場で研修者として過ごすのが決まりで。
研修先の工場長が、そうだった。
なにが気に喰わないのか、笑わない。
報告を聞いても、「うん」か「そうか」だけで、とにかく喋らない。
付合いにくいオッサンだと思ったが。
こっちは新入社員で、向こうは工場長なのだから、深く接する相手でもない。
ある時、当時導入された PC-8000 と夜中まで格闘していると、背後から声をかけられる。
「君、ちょっと、飲みにいかないか?」
えぇ〜、アンタとぉ? かなり無理なんですけどと思ったのだが、口にはしない。
「はい、ありがとうございます、ご一緒させて戴きます」
ふたりとも着任したばかり、街には不案内で、すでに日付も変っていた。
腰を落着けたのは、大阪湾岸沿いにある場末のスナックだった。
「いきなりでスマンが、唄ってもいいかなぁ?」
「もちろんです、気を使わんでください、どうぞ 」
どっちかというと、僕のことは、いないものと思っていただいた方が、気が楽なんですけど。
そして、曲が流れ始めた瞬間から、工場長は、工場長でなくなった。
“ Bésame mucho ” から始まって、“ Quizàs Quizàs Quizàs ” “ Cachito ” と続く。
巧みなポルトガル語と、低く擦れた声は、場末のスナックを、異国のクラブへと変えた。
いまどき何処で売ってんだという派手なワンピースを着たママも、聞き入っている。
「オニイチャン、この人歌手?」
「んなわけねぇだろうが!なんで歌手が、制服着てんだよ!工場長だよ!工場長!」
「嘘ォ〜、わたし惚れちゃいそう」
「 好きにしろよ!しっかし、上手ぇなぁ、けど、これって、いつ終わるんだろう?」
一時間ほど経って、唄い終えた工場長。
「 悪かったね、さぁ、飲むかぁ」
この間、工場長は一滴の酒も飲んでいない。
「全然構わないですけど、唄うだけ唄ってから飲むって、順番おかしくないですか?」」
「いや、今は、そういう気分でね、あぁ〜、俺は帰りたいよ、サンパウロに」
「ええっ!いきなりそっからですかぁ?でも、誰が考えたって、ご栄転じゃないですか?」
「君ねぇ、人生そういうことだけじゃないんだよ 」
「へぇ〜、やっぱり、情熱的な褐色のオネェチャン絡みの話ですか?」
「まぁ、そういうこともあるかもなぁ」
「マジっすか?あるんだぁ?っていうか、その面でぇ?」
ないだろう、ないと信じたい、もし、あるんなら、即、リオ店かサンパウロ店への転属願いだな。
駄目なら、サルバドル店でも良い。
頭は、カーニバルで、乳を揺すって、サンバを踊る褐色のオネェチャンを画像化するので手一杯だ。
すでに、オッサンの話なんかどうだっていい。
だが、東京工業大学卒の抜群に明晰な頭脳を誇るこの工場長。
なかなかの洒落者だった。
普段は制服か作業着だが、休日などにスーツ姿を見かけたことがあった。
夏場、Cordlane Stripe Suit に黒のニット・タイ、足元には、White Canvas Shoes という格好で。
工場敷地内に残る洋館の風情ともよく似合って、かつての植民地スタイルを想わせている。
この格好で、あの声で、Bèsame mucho を唄っていたのだとしたら。
存外、与太噺じゃなく真実だったりして。
大阪湾が、コパカバーナに、場末スナックのママが、 褐色のオネェチャンに重なる。
「嘘ォ〜、わたし惚れちゃいそう」

地球の裏側では、そんなこともあったのかもしれない。

 

 

カテゴリー:   パーマリンク