二百五十四話 傘餅って何?

今年は、正月行事の一切を控えなければならない。
となると、年末年始が暇かと言うと、これが意外と忙しい。
初七日に始まり、七日ごとに回忌があって、海辺の家に、ご住職がやって来られる。
大晦日も、六・七日にあたり、朝一番でやって来られる。
庭や家を掃除して、迎えなければならない。
嫁は嫁で、毎日お膳を整え、枕団子を供えなければならず、なにかと忙しそうである。
父の時にも、同じようにやったはずなのだが。
仏事を取仕切っていた母が逝ったので、訊く訳にもいかない。
加えて、十年以上も前の話なので、どうも要領を得ない。
インターネットで調べれば良いだろうと思いきや。
その土地によって、その菩提寺によって、様子が微妙に異なっていて、いまいち当てにならない。
例えば、枕団子。
一説では、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道に由来して六個と定められているらしい。
しかし、父母の菩提寺では違う。
一日一個の割で、七日分を一週ごとに供えるので七個なのだという。
そして、決して重ねてはならない。
明石藩家老を奉る菩提寺で、里見八犬伝由来の供養塔や、宮本武蔵作の庭が残る古刹だけに、
独特の決まり事も多い。
また、難儀な事に、このご住職、“ 鬼の知念和尚 ” と畏れられる曹洞宗の高僧なのである。
普段は、気の良い爺様で、仲良くしているのだが、仏事となると容赦無い。
亡くなった日の夜明けに駆けつけて、枕経を上げ終えると同時に、嫁に向かって命じた。
⎡団子忘れたらあかんでぇ!いますぐ用意してや!⎦
⎡えっ?いま?この状況で?こんな時に?⎦
⎡こんな時にせんと、いつするつもりなんや!⎦
可哀想に、泣き腫らした目をサングラスで隠して、白玉粉を買いに市場へと出かける羽目に。
そうこうしながら、四十九日が経ち、満中陰を迎える。
世間は、まだ松の内にある。
その間、ご住職は、出来の悪い檀家に、あれこれ指南しながら、ぴったりと寄添ってくれている。
⎡満中陰には、ここに在るもん全部持って、お寺においで⎦
⎡えっ?家じゃなくて、お寺で?⎦
⎡そうや、本堂で、ちゃんと法要してな、その方がええやろ?⎦
⎡なぁ、そないしてあげよ⎦
⎡お花も、寺で用意して待ってるからな⎦
⎡なんやったら、お膳も用意するから、ゆっくりしていったらえぇ⎦
⎡ただしや!傘餅忘れたらあかんでぇ!⎦
えぇ〜、マジでぇ〜、団子の次は、餅かよぉ〜。
この傘餅というのが曲者である。
四十九日餅とも言う。
七つに繋がった餅が七段あって、その上に薄い傘型の餅を被せる。
五合を丸く大きな傘にし、もう五合は四十九個の小さい餅に仕立てる。
最期の旅路への弁当と傘をという意味合いが、込められているらしい。
法要を終えた後、刀で傘部分の餅を切り、旅装束を着た人型を創る。
その設計図を、頭に叩き込んで、滞り無く事を運ばなくてはならない。

本来は、喪主である嫁の役割なのだが。
前日に用意された餅は、硬くなっていて、女手で容易に切り分けるのが難しい。
なので、僕が代わってやることになる。
こうやって書いていると、いかにも信心深い人間に思われるかもしれないが。
実のところ、僕は、神仏をさほど頼りにはしていない。
今時、こんなことをやって、何か得るものがあるとも思っていない。
だが、国法であれ、仏法であれ、法は法である。
どんな無駄な法であっても、どんな悪法であっても、無法よりは良いとも思っている。
法には、何かしらの経験に基づいた合理性が秘められているのではないか。
面倒な儀式を淡々とこなしていく。
実は、この非合理的な行為が、心に負った傷を癒し日常へと戻る最短の術であって。
宗徒が、最善の法として定め、遠い昔から、伝え残してきたのかもしれない。
まぁ、そんな事も考えつつ、当分の間、この法の流れに乗っかってみようかと思っている。
それにしても、このご住職。
“ 鬼の知念和尚 ” だか、何だか知らないけれど。
僕は、枕経を唱えながら泣いた僧侶を初めて見た。

どんな厳しい修行を積んでも、こればかりは、どうにもならないらしい。

 

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