波打ち際に建つ駅に、始めて降立ったのは一九七七年の暮だった。
もう三十六年も前の話である。
三宮から、海沿いの国道二号線を行けば、二〇分から三〇分もあれば着く。
西へ十五キロほどの距離で、都心からそう遠く離れた街ではない。
なのに、やたらと遠くに来たような気分にさせられた。
きっと、この小さな港町に漂う古びた褐色の気配がそうさせたのだろう。
駅から、海とは逆の北側に目を向ければ、すぐそこに山が迫っている。
神戸の西には、平に開けた土地が少ない。
この街も、国道を通せば、残りは浜辺に沿って一列の家屋を建てるのが精一杯である。
住人は、山の斜面に張付くように住処を設けて、海を見下ろすように暮らす。
日本人だけじゃなくて、外国人もそうして暮らす。
居留地の商館や、北野の異人館みたく立派なものではないが、斜面には多くの洋館が今だに在る。
一九三〇年 、英国人貿易商であった Ernest William James が、神戸のこの地にやって来る。
そして、自邸をはじめ六〇棟ほどの館を次々と建て、英国租界さながらの界隈とした。
外人学校もあって、肌色が異なる子供達が通っている。
いっぽうで、昔から守られてきた港が一駅ごとにあって、そこには漁師達が暮らす。
日に焼けた面をした漁師の小倅と、抜けるような白い肌をした異国の子女が、じゃれあって遊ぶ。
そうした不釣り合いな関係も、この地では、さほどに珍しくは映らない。
懐古的な英国気風と、漁師達が紡ぐ下町情緒が、妙な具合に入交じった気取りのない小さな港町。
十八歳の頃、そんな港街に生まれて育った同級生の家を初めて訪ねた。
その海辺の家には。
父となるひとが居て。
母となるひとが居て。
妻となるひとが居た。
真っ当で、しっかりとした家庭だった。
あの日、みんなで喰った晩飯を、昨日喰ったように思えてならない。
かなわない願いではあるけれど。
もう一度、四人で食卓を囲みたい。
今宵は、聖夜。
家主が去った海辺の家で、嫁とふたりになった今、想うことがある。
いつの日か、良い家族と、良い時間を過ごせたこの港街に戻ってこよう。
そうして、これからも幸せに暮そう。
一九八八年、小説家 宮本輝 は、著書 “ 花の降る午後 ”で、この地の洋館を舞台とした。
あとがきには、作者自身の言葉が添えられている。
⎡善良な、一生懸命に生きている人々が幸福にならなければ……………………。⎦
母は、間違いなく、善良だったし、最期まで懸命に生きたんだけど。
本当のところ、幸せだったんだろうか?
こんな問いかけも、今はもうできない。