二百五十話 この港街に

波打ち際に建つ駅に、始めて降立ったのは一九七七年の暮だった。
もう三十六年も前の話である。
三宮から、海沿いの国道二号線を行けば、二〇分から三〇分もあれば着く。
西へ十五キロほどの距離で、都心からそう遠く離れた街ではない。
なのに、やたらと遠くに来たような気分にさせられた。
きっと、この小さな港町に漂う古びた褐色の気配がそうさせたのだろう。
駅から、海とは逆の北側に目を向ければ、すぐそこに山が迫っている。
神戸の西には、平に開けた土地が少ない。
この街も、国道を通せば、残りは浜辺に沿って一列の家屋を建てるのが精一杯である。
住人は、山の斜面に張付くように住処を設けて、海を見下ろすように暮らす。
日本人だけじゃなくて、外国人もそうして暮らす。
居留地の商館や、北野の異人館みたく立派なものではないが、斜面には多くの洋館が今だに在る。
一九三〇年 、英国人貿易商であった Ernest William James が、神戸のこの地にやって来る。
そして、自邸をはじめ六〇棟ほどの館を次々と建て、英国租界さながらの界隈とした。
外人学校もあって、肌色が異なる子供達が通っている。
いっぽうで、昔から守られてきた港が一駅ごとにあって、そこには漁師達が暮らす。
日に焼けた面をした漁師の小倅と、抜けるような白い肌をした異国の子女が、じゃれあって遊ぶ。
そうした不釣り合いな関係も、この地では、さほどに珍しくは映らない。
懐古的な英国気風と、漁師達が紡ぐ下町情緒が、妙な具合に入交じった気取りのない小さな港町。
十八歳の頃、そんな港街に生まれて育った同級生の家を初めて訪ねた。
その海辺の家には。
父となるひとが居て。
母となるひとが居て。
妻となるひとが居た。
真っ当で、しっかりとした家庭だった。
あの日、みんなで喰った晩飯を、昨日喰ったように思えてならない。
かなわない願いではあるけれど。
もう一度、四人で食卓を囲みたい。
今宵は、聖夜。
家主が去った海辺の家で、嫁とふたりになった今、想うことがある。
いつの日か、良い家族と、良い時間を過ごせたこの港街に戻ってこよう。
そうして、これからも幸せに暮そう。
一九八八年、小説家 宮本輝 は、著書 “ 花の降る午後 ”で、この地の洋館を舞台とした。
あとがきには、作者自身の言葉が添えられている。
⎡善良な、一生懸命に生きている人々が幸福にならなければ……………………。⎦
母は、間違いなく、善良だったし、最期まで懸命に生きたんだけど。
本当のところ、幸せだったんだろうか?

こんな問いかけも、今はもうできない。

 

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