二百二十七話 色香漂う江戸の巴里

夏も終わろうかというのに、暮れてもまだ暑い。
そんな晩夏、久しぶりに神楽坂に宿をとる。
やっぱり、いつ訪れても此処は良い。
葡萄蔓のように路地が絡まっていて、その路地裏に料理屋や居酒屋がポツリポツリとひっそり在る。
路地の薄闇に、店屋の灯が妖しく揺らぐ。
その風情がまたなんとも良い。
坂を登って、中程を左に折れ、石畳を少し往くと、細い路地に面した小さな銭湯に出逢う。
“ 熱海湯 ” と浅葱色の下地に白く抜かれた暖簾が揺れている。
懐かしい昭和の浴場が、そのままに住人の営みに寄添って在る。
はす向いでは、古びた一軒屋で牛乳屋が営まれていたりして。
だが、此処は、下町の爺婆が集う界隈ではない。
夏の夕暮れ刻。
浴衣姿で、うなじの汗に手拭をあてながら湯浴みに向かう姐さんや。
鴉羽色の濡れた髪を拭いながら、お座敷支度へと急ぐ襟かえ前の舞妓さんとすれちがう。
夏化粧では、崩れを抑えるようにと硬めの鬢付け油を髪だけでなく顔にも用いる。
その鬢付け油の残り香が微かに香る。
お座敷とは違った風情の色香が路地を抜けていく。
日本にしか香らない、花街にしか香らない、その色香で夏を知る。
粋なもんだよねぇ〜、花代もかかんないし。
この街に惹き付けられて住人となり、棲み就く外国人達がいる。
仏人の、中でも巴里人のこの街への憧れは強く、実際多くの在日仏人が住む。
この街は、巴里のある地域ととてもよく似ている。
セーヌ川右岸十八区 Montmartre だ。
葡萄畑へと続く坂道、毛細血管状に入組んだ路地、修道女が仕込む葡萄酒を供した居酒屋。
それだけではない。
Moulin Rouge や Le Chat Noir といったキャバレーが軒を連ねる色街でもあった。
今では観光名所となり、すっかり健全でくだらない街となった Montmartre だが。
かつて悪所として名を馳せた頃の Montmartre を懐かしむ巴里人は意外と多い。
そして、神楽坂は、妖しくて、知的で、いけない色香が漂うOld Montmartre に似ているという。
Snobbish Village Kagurazaka.
そんな巴里人のひとりが営んでいるビストロが、ここ神楽坂に在る。
僕は、この飯屋の雰囲気と味を凄く気に入っている。
神楽坂に足を運んで、顔を出さずにはおれない一軒なのだ。
今宵の飯もそこでということにする。

飯屋の話は、次回にでも。

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