四百九十五話 暮らしに添って在る豆腐屋

歳をとると、しょうもないことで揉めることがある。
京都で、豆腐屋の店先を通りすがった際に友人が言う。
豆腐なんて喰い物が、なんの為にこの世に存在しているのか解らない。
色も、味も、食感もはっきりしない。
はっきりしないものを有難がって喰うやつの気が知れない。
明日にでもなくなったところで、どうということもない喰物のひとつである。
日本人の食文化を根こそぎにするかのような聞き捨てならない暴言だ。
中国で生まれ、東亜細亜を中心に広く食されている豆腐だが。
白くて柔らかい豆腐は、日本人による日本人のための食品としてある。
そして、豆腐は豆腐屋がつくる。
この豆腐屋、ひと昔前には町内ごとに一軒は営まれていた商いだった。
だから、豆腐はわざわざ遠くに足を運んで買い求めるものではない。
今でも、京の町屋から鉢を手に豆腐屋へと向かう姿を見かけたりもする。
その町に棲まうかぎり、いつもの豆腐屋のいつもの豆腐をずっと喰って暮らす。
日々のことであるから、暮らす者にとっては我町に在る豆腐屋の腕前は肝心である。
嘘か真か定かではないけれど。
豆腐好きで知られた泉鏡花は、豆腐屋の評判で居を移したこともあったらしい。
つくり手が、一丁一丁手売りするのがあたりまえで。
百貨店や量販店で売られている機械生産の豆腐は豆腐ではなく、味を似せた模造品の類だ。
一軒で日に三〇〇丁ほど売れば、家族の暮らしが立つという意外と採算性の良い豆腐屋稼業だが。
水に浸した大豆を臼でひき、煮て搾った豆乳に苦汁を入れて固めたものを包丁で四角に切る。
暑かろうと寒かろうと、夜に仕込み陽が昇る前からこの作業をこなさなければならない。
その繰り返しが生涯続くとなると、横着な者には到底務まらないだろう。
本来、豆腐屋とはそうした商いで、豆腐とはそうした喰物である。
先日、鳥取からの帰り途。
地元民の従姉妹が、 あんたの好きそうな店屋があるから送りがてら連れていってやるという。
辺り一面田圃に囲まれた集落で営む一軒の店屋。
豆腐屋だった。
「ここんちのお兄ちゃん、それはもうイケメンだから」
「えっ?そこなの? 俺、イケメンだろうがなんだろうが、お兄ちゃんに興味ねぇし!」
まぁ、たしかに、店主は若いし良い面なのだが、この豆腐屋それだけではない。
引戸を開けた右手すぐに構えられた工房。
道具のひとつひとつが、よく使い込まれ、よく手入れされてある。
夕暮れの薄陽に浮かぶその姿は、稼業への精進を映していて美しい。
もう食わなくてもわかる、此処の豆腐はちゃんとした旨い豆腐だ。
この集落で暮らすひとには。
旨い豆腐に日々ありつけるというささやかではあるけれど贅沢な幸運に恵まれている。
祖父から孫へと継がれた「 平尾豆富 」の味
見事です。
ごちそうさまでした。
この豆富、鳥取市河原町佐貫へ行けば味わえます。

そして、奥様方へは、イケメンお兄ちゃんの接客もご希望によりオプションで追加されます。

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