百十四話 ここは湘南

猫の目のように天気がころころと変わる。
その都度、姿や音も匂いも変わる。
初夏の嵐が思いもかけない恵を旅に添えてくれた。
いにしえの都に入梅の雨が降る。
紫陽花も濡れる、仏も濡れる。
浜に出れば嵐を告げる海鳴りが微かに沖から届く。
嵐は、真夜中にやって来て明方を待たずに去って行った。
六月二十日水曜日快晴。
まさに⎡ Big Wednesday ⎦
一九七八年公開の米国 Surf Movie なんだけど。
天と交わされた約束の大波がやって来る。
地元の腕利きサァファーが一斉に白く大きな波浪に向かう。
浜辺に立てかけられたボードの影が長く伸びて、稲村ケ崎に日が沈む。
まぁ、こんな感じかな。
でもお陰様で良い旅でしたよ。
凡庸とした旅でも少なからず何がしかの目的はある。
さわりを少しだけ紹介させて戴くと。
(一) 嫁が幼い頃一時期を過ごしたと云う逗子の住処をかつての記憶を頼りに探す。
(二) 伊集院静先生と夏目雅子さんの仲人を務められた三倉御夫妻が営む鮨屋にお邪魔する。
(三) 横浜に住む美人で聡明で堅実だがどこかおかしい学生時代の友人と会う。
(四) 由比ケ浜に在る独逸料理店⎡ Sea Castle ⎦の店主カール・ライフ婆さんの毒舌を聴きに行く。
(五) 今は無き⎡ Nadia ⎦の伝説の凄腕女性シェフ原優子氏が開いた⎡ Manna ⎦で伊料理を堪能する。
後は北鎌倉で紫陽花や竹林でも眺めて過ごそうかと思う。
それにしても。
前にも想ったが、此処湘南界隈は嫁の実家が在る神戸の西域に連なる海辺の街並と似ている。
東の街は源氏が西の街は平家がその礎を築いた。
海辺を行く鉄道も江の電と山陽電鉄と、歩いた方が早いんじゃないかと思う速度感も同じだ。
浜で写真を撮ればどっちがどっちか判らないくらい近い。
だからなのか妙に居心地が良い。
聞いた話だが湘南人気質というのがあるらしい。
どこまでを湘南というのか詳しくは知らないが、葉山から江ノ島まで藤沢辺りもそうなるのかも。
いづれにしてもこの辺りの地元民は、他人と競い合うのを好まないらしい。
我慢も得意ではなく、明るく社交的だが自身の生き方は頑に変えないと聴く。
鎌倉に住む知合いの実業家が云う。
⎡湘南人だから悩みが無いなんて嘘だね⎦
⎡経営なんてもんをやってると、そりゃぁ眠れない夜を過ごすなんてしょっちゅうだよ⎦
⎡そんな日は夜明けを待って浜に出るんだよね⎦
⎡潮の音聴いて匂いを嗅いで 岬を眺めてると悩んでるのが段々馬鹿馬鹿しくなってくんだよな⎦
あたりまえだが湘南人にだって悩みはある。
ただその悩みを引きずらなくて済む風土がこの地には息づいている。
多分そういうことなんだろう。
義理の父母も そうだったんじゃないかな。
仕事場の都内ではなく、海岸まで歩いて行ける逗子の地を住いに定めた。
僕は、育った土地がその後の人の生き方を左右すると信じている。
小坪海岸から逗子駅への帰り道バスの中で嫁がポツリと漏らした。
⎡私達ふたりともこの辺り好きだよねぇ⎦
⎡人間がゆるいからなのかなぁ?⎦
⎡そうだよなぁ、俺たち生馬の目を抜くなんて怖くて出来ないよなぁ⎦
⎡まぁね、お互いひとりっ子だしね⎦
確かにゆるく生きるなんて自慢出来た話でもない。
今までそう思ってきた。
世間で馬鹿にされないようにと、それなりに意地も張ってきたし無理もしたけれど。
もうそろそろ良いんじゃないかなぁ。
なぁ〜んて事に出来の悪い頭を巡らせたりもする。
ちょっとした旅でちょっとした事を考えるのもたまには良いもんですよ。

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