百十六話 浜には、独逸婆さんがいる。

⎡おかあさん、変わらず元気そうだねぇ⎦
⎡えっ、なんだってぇ?⎦
⎡おまえはどうなのぉ?⎦
⎡俺は元気だよ⎦
⎡じゃぁ、わたしも元気だよ⎦
⎡自分だけが元気でいようなんて欲なこと考えるんじゃないよ⎦
のっけからこの始末である。
客に向かってオマエなんだからもうどうしようもない。
他所でこれをやられたら店ごとぶち壊してるところなのだが。
此処は一三四号線の由比ケ浜四丁目交差点に在る独逸料理店である。
屋号を⎡ SEA CASTLE ⎦という。
目の前は海で。
日が暮れる頃にはウエットスーツ姿のまま家路につくサーファー達が店前を通り過ぎて往く。
昭和時代の湘南を色濃く映している店は、創業一九五七年で今年五十五年目を迎える。
そして、この口の悪い店主は名をカーラ・ライフという。
ベルリン生まれの独逸人の婆さんだ。
何歳なのかは面倒臭いので訊いていないが創業者なのだから店歴を考えると相当だろう。
だが、そうそう容易く逝きそうにない。
料理は彼女の弟二人が創る。
言っときますけど、此処 ⎡ SEA CASTLE ⎦の独逸料理は絶品ですよ。
ほんとうに旨い。
Frankfurter Würstchen をはじめ独逸各地の自家製ブロストから三種類ほど。
Räucherlachs 独逸版鮭の燻製。
Roast-beef は独逸語でもロースト・ビーフじゃなかったかなぁ。
酒は、なんとか Bier Dunkel という酵母入りの黒ビール。
⎡これは酵母が強くて泡立ちが良いビールだからゆっくり注ぐんだよ⎦
⎡最後の一滴までゆっくりとだよ、いいね零すんじゃないよ⎦
うるせぇ婆だと思いながらやってみると、なるほどなかなかに難しい。
嫁は意外と器用に無事注ぎ終えている。
やばいなぁ。
案の定婆さんがやって来る。
⎡なにやってんだぁ、ゆっくりだって言ったろぅ⎦
⎡やってるけど簡単にはいかねぇんだよ⎦
⎡この子はちゃんと出来てんのに、なんでおまえが出来ないんだよ⎦
嫁が別のところに反応する。
⎡この子ってワシ?⎦
⎡なかなか親切な良いおかあさんじゃん⎦
すっかり気分良くなって婆さんの味方になっている。
この婆ぁ、見かけによらず意外と細かいテクニック使うよなぁ。
いやぁ〜、旨い。
肉を頬張っていると、いきなり後からバシッと背中を叩かれる。
巨漢から繰出される強烈な平手打ち、また婆ぁだ。
ろくな事をしない。
⎡お腹一杯になったぁ?⎦
⎡ なんねぇよ、それよりいちいち客にもの尋ねるのにブツなよ⎦
⎡オメエは猪木かぁ?⎦
婆ぁ無視しやがった。
⎡じゃぁ、さっき牛だったから豚食べてみる?⎦
⎡品書きに無いけど旨いよ⎦
Schweinebraten ロースト・ポークみたいなもんだろう。
脂が落ちてあっさりとしているが、豚肉の旨味はしっかりと残っている。
繰り返しになるが ⎡ SEA CASTLE ⎦には本場独逸を越えた味がある。
ところでこのカーラ婆さんは不思議な人だ。
噂ではマナーの悪い客を叱り飛ばした挙句店から追払うこともあるらしい。
違った噂もある。
独逸にサッカー留学しようとしていた若い客がいた。
面倒な必要申請書類の作成に怒鳴りながらも何時間にもわたって付合ったという。
あくまでも噂なのだが、どちらの話も真実じゃないかなぁ。
他人を叱るというのは面倒で難しい行為だと思うし出来れば避けて通りたい。
自分に一文の得にもならないのだったらなおさらだろう。
他人を堂々と叱るには相手を圧倒できる人生を背負っていなければならない。
そうでなければ、いくら味が良くても誰も寄りつかない。
五十五年という店の歳月は店主の真っ当な人柄を物語っている。
自身二十代半ばから三十代初め頃まで、年に数度独逸に通っていた時代があった。
戦後独逸の復興は瓦礫と化した煉瓦をひとつひとつ拾い集め積んでいくところから始まった。
その過酷なまでの復興を担ったのは多くの独逸女性だと聞いた。
そりゃそうである。
当時の独逸では、まともな男手は底をついていたのだから。
僕は、カーラ・ライフという人物の人生について何も知らない。
一九四五年独逸が東西に分断された時ベルリン生まれの彼女がどこにいて何を見たのかも知らない。
父親は駐日独逸大使館関係者だったらしいが。
ライフ一家にとっても彼女にとっても簡単な道程じゃなかったんじゃないかなぁ。
勝手な想像に過ぎないけど。
閉店まで、昔の湘南の事や今の湘南の事をいろいろと話してくれた。
憧れの ⎡なぎさホテル⎦ の話になる。
⎡よくダンス・パーティーに通ったねぇ⎦ 遠くを見て嬉しそうに笑う。
カーラ婆さんの青春の ⎡なぎさホテル⎦ だが今はもう無い。
湘南も変わったと聞くがここ ⎡ SEA CASTLE ⎦ だけは人も店も時が過ぎ往くことも無く止まっている。
浜に寄せる時代の波にも流されない大切な大切な砦なのである。
最後に勘定を済ませて立去る時婆さんが言った。
⎡明日は晴れるよ、蔭山さんまた会おうね⎦
そして僕はこのカーラ・ライフという女性がたまらなく好きだ。Auf Wiedersehen.

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