二百七十六話 東の桜 と 西の桜

二百七十五話の続きで、病に冒された男の話をさせて戴くつもりでしたが、その前にちょっと。
花見です。
と言ったところで、桜を見上げながらの酒宴というわけにはいかない。
喪が明けるまで、 後八ヵ月は、そういった事も慎まなければならないのだろう。
夕暮、嫁とふたりで、目黒川沿いを歩く。
花冷えというには、寒過ぎる。
そのせいか、人出もそう多くはない。
だが、両岸に咲誇る桜は、見事である。
川巾があまり広くないのもまた良い、左右の岸から川に被さるように咲く。
夕日に、川面が染まり、桜も染まる。
「綺麗だよねぇ〜、寒いよねぇ〜、お腹減ったよねぇ〜」
「じゃぁ、まだちょっと日が高いけど、今からでも焼鳥屋に潜り込む?」
「マジでぇ!ナイスじゃん!今でしょ!」
と、まぁ、そんな感じで、東に咲く桜を見た。

西の桜は、海辺の家に咲く姥桜だ。
東の桜を眺めながら、西の桜を想う。
この庭に根づいて半世紀、咲けば家族の誰かが見上げた、母ひとりだけの時もあっただろうけれど。
少なくとも、誰も眺めないという時は、一度としてなかった。
しかし、この春、この家に、この庭に、母は、もういない。
見ようと見まいと、勝手に咲いて、勝手に散るんだから、気にするほどのことはない。
とは言うものの、ちょっと不憫になって、嫁に訊く。
「なぁ、月曜日にでも、ちょっと帰ってやろうか?」
「うん、でも、週末に雨降るらしいし、散っちゃわないかなぁ?」
「意外と、婆の桜は、しぶといと思うよ」
海辺の家に着いて、庭に出て、見上げると、婆が待っていた。
東の桜みたく何百本も連なっているわけではない、一本どっこで海を睨んで立っている。
身贔屓もいいとこだが、近隣のどの桜よりも大きくて、立派で、艶やかだ。
年増の意地も、こうしてみると、なかなかに大したものだと感心する。
年月を重ねた木々には、家人とちょっとしたやりとりが出来る奴がいて、この姥桜もその内である。
「遅ぇんだよ! 年寄を待たせんじゃないよ!」
「根が生えてんだから、のこのことこっちから咲きに行ってやるわけにはいかねぇんだよ」
「 ところで、もうひとりの婆にも見せてやんな、せっかくこうして咲いてやってんだから」
「もうひとりの婆?」
「家の中に居るんだろ? 仏様だからって、薄暗い部屋に閉込めとくんじゃないよ!」
「なんのための庭なんだぁ!気がきかない野郎だねぇ、まったく! 」
仏になった母を連出そうと、嫁に伝える。
「そうなの? じゃぁ、ちょっと待ってぇ、わたし、今から団子つくるから」
「団子、団子って、あの住職、ひとの顔見たら団子こしらえろって言うけど、つくるなら今でしょ」
「花見団子っていうことかぁ、そりゃそうだな」
庭先に椅子と机を据えて、盛った団子にきな粉砂糖を塗す。
そうして、見事に咲いた西の桜を、改めて見上げる。
傍らでは。
ちっちゃくなった母を、膝に抱いた嫁が、黙って見上げている。

こんな花見は、もうちょっと先なんだろうと思っていたけれど。

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