二百七十五話の続きで、病に冒された男の話をさせて戴くつもりでしたが、その前にちょっと。
花見です。
と言ったところで、桜を見上げながらの酒宴というわけにはいかない。
喪が明けるまで、 後八ヵ月は、そういった事も慎まなければならないのだろう。
夕暮、嫁とふたりで、目黒川沿いを歩く。
花冷えというには、寒過ぎる。
そのせいか、人出もそう多くはない。
だが、両岸に咲誇る桜は、見事である。
川巾があまり広くないのもまた良い、左右の岸から川に被さるように咲く。
夕日に、川面が染まり、桜も染まる。
「綺麗だよねぇ〜、寒いよねぇ〜、お腹減ったよねぇ〜」
「じゃぁ、まだちょっと日が高いけど、今からでも焼鳥屋に潜り込む?」
「マジでぇ!ナイスじゃん!今でしょ!」
と、まぁ、そんな感じで、東に咲く桜を見た。
西の桜は、海辺の家に咲く姥桜だ。
東の桜を眺めながら、西の桜を想う。
この庭に根づいて半世紀、咲けば家族の誰かが見上げた、母ひとりだけの時もあっただろうけれど。
少なくとも、誰も眺めないという時は、一度としてなかった。
しかし、この春、この家に、この庭に、母は、もういない。
見ようと見まいと、勝手に咲いて、勝手に散るんだから、気にするほどのことはない。
とは言うものの、ちょっと不憫になって、嫁に訊く。
「なぁ、月曜日にでも、ちょっと帰ってやろうか?」
「うん、でも、週末に雨降るらしいし、散っちゃわないかなぁ?」
「意外と、婆の桜は、しぶといと思うよ」
海辺の家に着いて、庭に出て、見上げると、婆が待っていた。
東の桜みたく何百本も連なっているわけではない、一本どっこで海を睨んで立っている。
身贔屓もいいとこだが、近隣のどの桜よりも大きくて、立派で、艶やかだ。
年増の意地も、こうしてみると、なかなかに大したものだと感心する。
年月を重ねた木々には、家人とちょっとしたやりとりが出来る奴がいて、この姥桜もその内である。
「遅ぇんだよ! 年寄を待たせんじゃないよ!」
「根が生えてんだから、のこのことこっちから咲きに行ってやるわけにはいかねぇんだよ」
「 ところで、もうひとりの婆にも見せてやんな、せっかくこうして咲いてやってんだから」
「もうひとりの婆?」
「家の中に居るんだろ? 仏様だからって、薄暗い部屋に閉込めとくんじゃないよ!」
「なんのための庭なんだぁ!気がきかない野郎だねぇ、まったく! 」
仏になった母を連出そうと、嫁に伝える。
「そうなの? じゃぁ、ちょっと待ってぇ、わたし、今から団子つくるから」
「団子、団子って、あの住職、ひとの顔見たら団子こしらえろって言うけど、つくるなら今でしょ」
「花見団子っていうことかぁ、そりゃそうだな」
庭先に椅子と机を据えて、盛った団子にきな粉砂糖を塗す。
そうして、見事に咲いた西の桜を、改めて見上げる。
傍らでは。
ちっちゃくなった母を、膝に抱いた嫁が、黙って見上げている。
こんな花見は、もうちょっと先なんだろうと思っていたけれど。